年取ったら(もう十分取っていますがもう少し先の話として)海外で暮らしたいと1人が言い出した。タヒチがいいとかバリがいいとか皆口々に英語が通じる場所を挙げ始めた。でも女1が突然「少しの間だったらいいけどずっとは嫌だ。」と言い出した。何故と聞くと「英語が通じれば生活には困らないけど話した気がしない。」と。男1と男2は、『英語通じるし英語上手いのに、何を言ってるんだコイツは!』と心の中で呟いた様子。
男3はおもむろに紙に短い科白を書いた。「いやだ、死にたくない。」と。
4人で紙を回しながら1人づつ読む。
男1 いやだ、死にたくない。
女1 いやだ、死にたくない。
男2 いやだ、死にたくない。
男3 いやだ、死にたくない。
科白は同じだが異なる。
男1は、ヤクザに掴まりコンクリート詰めにされそうになったかのように叫ぶ。
女1は、甘い声で男と話している。
男2は、社員に向かって社長が訓示しているかのように喋る。
男3は、雪山で遭難しそうになって小さく呟く。
そう、女1は英語では心のままに感情表現が出来なくて窒息してしまいそうと言いたかったのだ。母語の日本語なら何の不自由もなく感情を自然に表現できているのに。
科白を書きながら思う。言葉は文字ではなく感情を同時にはきだすものかもしれないと。英語を母語としない者が妖精パックの魔法をかけられて目覚めたときのライサンダーの科白”Not Hermia, but Helena I love.”を感情表現することができるのだろうか?
この公演の中で手掛かりが見つけられたらと思いつつ。
榊 俊作
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