2013年7月19日金曜日

ユーモア疎外という言葉を考えた(石田)

2回目の通し稽古を控え、いよいよ各作品の稽古も佳境を迎えてまいりました。

自分では面白いと思って書いている本ですが、同じ場面を繰り返し繰り返し稽古していると、果たしてこの本は面白いのだろうかと改めて考えてしまうことがあります。
この状態のことを、「ユーモア疎外」と呼ぶことにしました。

理由は、この心理状態は人間疎外に似ているな、と思ったから。
大辞林によれば、人間疎外とは「人間が機械の部分品のように扱われて、人間らしさが無視されること。社会が巨大化し複雑化するにつれて、人類の発展のためという本来の目的を忘れ、人間性を失っていくことへの警告として生まれた語。」とのこと。
例えば、工場のラインで機械に囲まれて毎日同じ作業をしていると、自分が機械の一部のような気がしてきて、自分とは一体何者なのかよく分からなくなる、そんな状態のことを指しています。

私がこの言葉を知ったのは、高校の現代文の時間でした。
現代文担当のO先生は厳しいと評判の大ベテランのおじいちゃん先生で(当時の私はおじいちゃんと思っていましたが、そこまでおじいちゃんではなかったのかもしれません)、授業中は常に教室に張り詰めた空気が漂っていました。

そんなO先生が、突然抜き打ちで生徒に作文をさせたことがあります。
今思うと、あれはただの先生の趣味だったのではないかと思います。
どんなボロクソな評価をつけられるのだろうかとダメモトで書いて、とりあえず提出したら、次回の授業で戻ってきた作文は意外にも高評価。
優秀作品の一つに私の作文が選ばれました。

ただ、純粋に嬉しかった。
あのO先生に褒められるとは思っていなかったから。
この体験が、今でも私の書くことへの原動力になっている気がするのです。

この本はどこが面白いの?
自問自答していたら、ふとよぎった「人間疎外」という言葉。
O先生の険しい顔と、高校時代の記憶がどっと溢れだして、記憶の中のO先生が私にどやしつけます。
「今更悩んでどうする。お前が楽しくなきゃ、お客さんが楽しいわけないだろ。」

そうかもしれません。

せきでんどうし

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